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大黒流の史料
 
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明治3年 (1870年)

およそ16メートルもの高さに、多くの飾り物をつけた江戸時代後期から明治時代初頭の山笠です。当時は洲崎流(大黒流)、土居流、西町流、呉服町流、東町流、魚町流(福神流)、石堂流(恵比須流)の七流が山笠を奉納していました。
写真は、洲崎流(大黒流)の一番山笠で、博多祇園山笠を写した最古の写真です。


明治29年 (1896年)

西洋文明を重視する当時の風潮の中、山笠禁止令により明治5年(1872年)から10年間山笠が中断しますが、明治25年(1892年)には最盛期に近い山笠が再び建てられました。その後も再三存続の危機が訪れますが山笠の高さを低くするなどして切り抜けました。
博多の中心的な商店街であった下新川端町の当番記念写真です。


大正4年 (1915年)

明治43年(1910年)の路面電車開通により舁山はさらに低くならざるを得ませんでしたが、山小屋には従来どおり背の高い山笠も建て飾りました。
写真は麹屋番が当番を務めた年のもので、前列には「年寄帷子(としよりかたびら)」を着た年寄りが並んで写っています。


昭和13年 (1938年)

意匠豊かな旧町(※)当番法被姿の記念写真です。昭和20年(1945年)6月19日の福岡大空襲で戦前の史料の多くが焼失したために、現存する写真はわずかです。
昭和41年 (1966年)の町界町名整理以前の町


昭和24年 (1949年)

戦後、がれきの中から山笠が再出発したときの写真です。この年大黒流は一番山笠として櫛田入りを果たしました。
前列右から4人目に博多祇園山笠振興会の初代会長落石栄吉氏の姿がみえます。


昭和41年 (1966年)

福岡市による町界町名整理で流の運営は苦境に立たされましたが、町の再編などによってその危機を乗り越えました。
写真は、町界町名整理が行われてから最初の山笠です。


平成10年 (1998年)

再開発により下川端地区各町の存続が危ぶまれましたが、住民の努力で町を維持しました。
写真は、逆境のなか世話当番の務めを果たした下新川端町です。



平成28年 (2016年)

博多祇園山笠など全国33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
写真は、翌年開催された記念イベントでの博多山笠と唐津曳山。


令和4年 (2022年)

新型コロナウイルスの感染拡大により、令和2年はすべての行事が見送られ、令和3年は飾り山の奉納だけが行われました。
令和4年も厳しい状況下でしたが、三年ぶりに舁山行事が催行されました。
写真は、長い期間当番を務めたつノ一が台上がりする追山櫛田入り。






昭和29年 (1954年)

戦後数年目には博多に子供たちの「言い立て」と太鼓の音が鳴り響きました。 松囃子は戦後の暗い気持ちを払拭しました。


昭和45年 (1970年)

昭和41年の町界町名整理で大黒流は新体制となりました。
この頃、上五ヶ町(※)はブロックで当番を務めており、昭和45年には傘鉾が6本もそろいました。
※麹屋、寿通、川端、下新、川中


平成27年 (2015年)


重要な御神具のひとつである大黒面が、124年ぶりに新調されました。大黒面は松囃子終了後の「面送り」という行事で、翌年度の当番町へと申し送られます。
現存する最古の大黒面は、天明8年(1788年)に制作されたもので、櫛田神社に保管されています。



令和2年 (2020年)

博多松囃子が、国の重要無形民俗文化財に指定されました。折しも新型コロナウイルスの爆発的感染拡大により、この年の松囃子行事は中止となりました。
写真は、翌年、感染対策を施して櫛田神社に集う三福神と参加者。




写真は「年度別」ページに多数掲載しています。




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