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戦後、下新川端町の旧「電車道」より岡側半部が分離し、東下新川端町とした。昭和29年には早くも当番町を務めた。昭和41年には新体制となったため、東下新川端町としてはこの年が最初で最後の当番となった。新体制移行後は「川端中央街」と改称した。
山笠において、水法被は、絣、浅黄の二種を用いていたが、昭和33年より白地に「川」の法被とした。当番法被は従来どおり「下新川端町」のものを用いていた。 [H17.1.11
内藤博文] |
【戦前の写真は下新川端町のページにあります。】
左上の写真
後列 門田敏郎、泰松多喜男、平川重男、篠原七五三吉、内藤晴之
中列 瀬川巳義、吉野芳右衛門、前田、瀑布川喜偉
前列 門田辰生、原口玄吾、内藤幸太郎、小田利義、眞鍋孝三郎、片岡重夫 |
右上の写真
左から 片岡重夫、瀑布川喜偉、小田利義、原口玄吾、篠原七五三吉、瀬川巳義、眞鍋孝三郎、門田辰生 |
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昭和29年 |
昭和29年 |
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昭和29年 |
昭和29年 |
内藤晴之氏と長女
幸子さん、父幸太郎氏 |
上中の大黒天を囲んだ写真
後列 左から 門田敏郎、城戸、元木、江良忠毅、吉川禮蔵、瀑布川巌
前列 左から 篠原七五三吉、原口玄吾、小田利義、大黒天、?、内藤晴之、前田 |
【戦前の写真は下新川端町のページにあります。】
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昭和31年 |
昭和33年
左から松本清宣、松本清治、
内藤博文
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昭和27年
取締阿部林太郎氏と
門田敏郎氏 |
左上の写真
後列左から 吉川禮蔵、?、?、片岡保、眞鍋儀平、小山、?、原口直之、瀬川、小山常明
前列左から 瀑布川巌、松本清輝、内藤晴之、篠原七五三吉、門田敏郎
前列子供 松本清治、小田利一郎、?、門田まゆみ |
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昭和31年 アーケード竣工 |
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